内モンゴル & 外モンゴルとは ???
曾て、内モンゴルも外モンゴルも清朝政府が
支配していたが、20世紀前半に外モンゴルだけが独立して、内モンゴルは中国領として残った。
歴史を遡ってみると、モンゴル人が中国を支配していた時代もある。例えば、(1215〜1294)モンゴル帝国第5代のハ・ン、フビライハ・ン。
在位(1260〜1294)で,中国をおさめた元(げん)朝の初代皇帝(在位1271〜1294)。元朝の世祖(せいそ)という。
チンギスハ・ンの孫である。1264年に都を大都(だいと)(今の北京)にうつし,1271年に国号を元とし,
1279年南宋(なんそう)をほろぼして中国を統一した。高麗(コリョ)をしたがえ,東南アジアのミャンマー・ベトナムなどを攻める・・・。
清朝政権の時は、モンゴルはチベットや新彊とともに藩部と呼ばれ、中央政府は内政に干渉せず、
伝統的な地元の王が統治していた。しかし南部(内モンゴル)ではやがて中国本土から漢人の開拓移民が増え、
人口のうえで漢人が多数派になった。
1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを契機に、外モンゴルでは独立運動が起こり、かねてからモンゴル進出を狙っていたロシアの支援で、
チベット仏教の活仏ラマを君主とするボグド・ハーン政権が生まれた。清朝に代わって成立した中華民国はモンゴルの独立を認めなかったが、
ロシア革命後はソ連の赤軍が占領して、24年にモンゴル人民共和国として独立を果たした。
ソ連崩壊の影響で、社会主義を放棄して国名をモンゴル国に変更した。
モンゴル国の首都はウランバートル、面積は約日本の4倍で、人口はおよそ280万人である。その内9割以上はモンゴル人である。
一方、内モンゴルもの独立運動やモンゴル国との合併運動を何回か行われたが、最後は失敗で告げた。当時はソ連に留学した経験がある
ウランフという人物は、中国共産党員で、独立運動や合併運動に失敗した内モンゴルにて、「内外モンゴルの統一」に代わって、
「東西内モンゴルの統一」を目指した。
その後、中国共産党の指示により、1947年5月に王爺廟で内モンゴル自治政府が成立した。1949年10月に中華人民共和国が
成立すると、12月に内モンゴル自治区が誕生して、ウランフは主席に就任した。
内モンゴルの区都はフフホト、面積は約日本の3倍で、人口はおよそ2400万人である。
その内およそ9割が漢民族で占めている。
通常、モンゴルとは現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせた区域になる。
モンゴル帝国とは???
12世紀の半ば過ぎ、全世界の歴史に影響を与えることになる人物が生まれた。その男の名前はテムジン。
モンゴル高原での各部落を統一して、チンギスハ・ン(1167頃~1227年)となった。
テムジンは、遊牧民族の1つであるモンゴル族の一首長、イェスゲイの息子で、9歳の時、イェスゲイは、敵対するタタール族によって、
毒殺される。イェスゲイ死後、その傘下にいた人々は、皆テムジン一家を離れていく。テムジンは、母と弟たちだけで生活することになる。
過酷な環境におかれたテムジンは狩猟採集で自活し、決断力、実行力、統率力、それから冷酷さを身につけて成長していく。
やがて、成長したテムジンを支援する人々が出てきて、そして、人が集まるようになり、
他部族との戦いに勝利して、また人が集まる。そして、モンゴル高原を統一した。
テムジンは諸部族による有力者の会議、クリルタイ(国会会議に当たる)において指導者と認められ、ハ・ンという称号が与えられる。
ハ・ンとは王というような意味で、チンギスハ・ン(位1206~27年)が誕生する。
チンギスハ・ンが各部族を統合すると、それを総称する形で大モンゴルと呼ばれるようになった。
それまで、モンゴルというのは一部族の名前に過ぎなかった。
そして1209年、いよいよ周辺に向けて侵攻を開始する。まずは西夏(1038~1227年)に攻撃をかけて服従させる
(さらに1227年に裏切ったため、滅亡させる)。そして、1218年に引き続き西遼(12世紀~1218年)を滅ぼす。
その後、イスラム教国家であるホラズム王国(1077~1231年)を1231年に滅亡させられた。
チンギス・ハンの死後もその子どもたちは、ユーラシア大陸のあちこちに攻めこみ、中国、西アジア、ヨーロッパのいろいろな国を征服
した。これにより、モンゴル帝国はユーラシア大陸にまたがる巨大な帝国となった。
その後、この巨大な帝国は、下の図のようにチンギス・ハンの子どもや孫たちによって大きく5カ国に分けられた。
それぞれキプチャック・ハン国、オゴタイ・ハン国、チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、フビライ・ハン国の支配した国である。
参照:フリー百科事典『ウィキペディア』
内モンゴル政府ホームページ
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